1957年
7月6日 ジョンとポールがセント・ピーターズ教会で運命的な出会いをする。
10月 ポールがジョンのバンド「クオリーメン」に加入する。
1958年
2月6日 ポールの友人であるジョージがクオリーメンに加入。
1959年
8月29日 地元リバプールのカスバ・クラブにレギュラー出演。
1960年
5月 シルバー・ビートルズに改名。初の本格的なツアーに出る。
8月 ビートルズと改名。ピート・ベストがドラムとして加入。
8月 ドイツのハンブルグにて巡業。約3ヶ月間のライブ生活が続いた。このころ 「ロリーストーム・アンド・ハリケーンズ」のドラマーだったリンゴと出会う。
同じころ、
アストリット・キルヒヘルが
クラウス・フォアマンを通じてビートルズと出会う。 (のちにスチュアートと恋に落ちることになる)
11月 深夜労働に満たないジョージは、国外追放を命じられた。ポールとピートも労働許可書がないなどで追放。ジョン、スチュも続いて追放された。
1961年
1月 スチュがバンド活動を休んでいたので、ポールがベースを担当。
2月〜7月 ジョンの誘いでスチュが再びメンバーに復帰。3月には2度目のハンブルグ巡業がはじまる。しかしスチュは、好きなアートの方に専念するためバンドを脱退する。
8月 ビートブラザーズとして、トニー・シェリダンのバックを勤めた「マイ・ボニー」がドイツで発売される。
11月、レコード店を経営しているブライアン エプスタインのところに、
一人の少年がやってきた。少年は「My Bonnie」が欲しいとやってきたのだが、エプスタインはそこで初めてビートルズを知ることになる。興味を持ったエプスタインは、Cavern Clubに足を運びビートルズと出会う。
そして12月、エプスタインがビートルズのマネージャーになることが合意される。
このころからスチュの体調が悪化し始め、倒れてしまう。
1962年
1月1日 デッカ・レコードのオーディションを受けるが不合格に終わる。地元で人気のある新聞
「マージー・ビート」誌の人気投票で1位を獲得。
4月10日 激しい頭痛に悩まされつづけていたスチュはこの日3度目の卒倒。そしてアストリットにみとられ、亡くなった。 死因は右脳出血による大脳性麻痺と判断。翌日、再びハンブルグを訪れたジョンやポールはアストリットからスチュの死を告げられる。
5月 EMIレコードと契約。そのプロデューサーとして迎えられたのはジョージ・マーティン。
6月 アビーロードスタジオで初のレコーディングが行われる。そして、ドラム担当だったピートは ビートルズを解雇され、その後リンゴが加入。現メンバーが揃ったことになる。
8月23日、ジョンは学生時代に付き合っていたシンシア・パウエルと結婚した。
10月5日、ついに「Love Me Do」でデビューを飾る。
12月18日〜31日、最後のハンブルグ巡業へ。
1963年
1月、スコットランドツアーが始まる(4日間)
2月〜3月、この期間に初めてのイギリスツアーと2度目のイギリスツアーを体験。
4月8日、シンシアが長男の
ジュリアン・レノンを出産。
6月4日、BBCラジオ「ポップ・ゴー・ザ・ビートルズ」放送開始。
10月、スウェーデン公演(6日間)
11月4日、すでにイギリス中を圧巻させていたビートルズは、ついに皇室の
「ロイヤル・バラエティ・ショー」に出演。
1964年
1月、初めてのフランス公演。
2月9日、アメリカに進出したビートルズは、アメリカで大人気の番組「エド・サリバンショー」に出演。72%という驚異的な視聴率を生み出した。さらにカーネギーホールでのライブも成功を収め、アメリカでの人気に拍車をかけた。
4月、ビルボードのシングルチャートで
1位から5位までを独占。
6月、デンマーク、オランダ、香港、オーストラリア、ニュージーランド公演をする。
7月、初の映画「A Hard Days Night」(日本タイトル「ビートルズがやってくるヤァ!ヤァ!ヤァ!」)が公開される。 このころからスウェーデン、アメリカ、カナダ、イギリスとライブツアーが続く。
1965年
2月11日、リンゴはモーリーンと結婚。
6月、フランス、イタリア、スペイン公演。
7月29日、2作目の映画「HELP!」(日本タイトル「4人はアイドル」)が公開される。
8月15日、初の野球場でのライブ「シェア・スタジアム」で観客動員数の史上最高記録55,600人を達成。 しかし、このころからビートルズはライブ活動に関して疑問を抱き始めていた。
10月、それまでの功績が認められ、皇室から授与される勲章の授賞式が行われ、ビートルズは
MBE勲章を受章した。
12月、イギリスでの公演。
1966年
1月、ジョージはパティと結婚。
3月、ジョンの
キリスト発言がイギリスで発表されるがそのままなんのことなく過ぎて行った。
5月、イギリスでの公演。しかしこれは結果的に最後のイギリス公演となってしまう。
6月〜7月、ドイツ・
日本・フィリピンでの公演。しかし、フィリピンではマルコス大統領主催の昼食会に欠席したとして
抗議され、暴行を受けた。もうライブツアーは限界に来ていた。
8月、アメリカでジョンの「キリスト発言」が発表される。するとアメリカ全土で猛抗議の攻撃に遭う。その後ジョンはキリスト発言について謝罪した(せざるを得なかった)。
そんな中開かれたアメリカツアー。すでにライブツアーへの気持ちは完全に消滅した。
8月29日、サンフランシスコの「キャンドルスティク・パーク」で行われたコンサートを最後に一切のライブ活動を停止した。
9月、ジョンは単独で映画「How I Won the War」(日本タイトル「僕の戦争」)に出演。
10月、アルバム「ラバー・ソウル」で初めてインド楽器
シタールに挑戦していたジョージはさらなるシタールの習得のため、インドへ旅行に行く。
11月9日、ジョンは日本の前衛芸術家、小野洋子と運命的な出会いを果たす。
11月、このころから密かに
「ポール死亡説」がささやかれ始める。
1967年
1月、「ポール死亡説」がイギリス中に広まる。
3月、シングルの「ミッシェル」・「エリナー・リグビー」とアルバム「リボルバー」で、3部門のグラミー賞を獲得。
6月25日、世界24ヶ国を同時中継で結んだ初めての宇宙中継特別番組「アワー・ワールド」に出演。「All You Need is Love(愛こそはすべて)」を演奏して、愛のメッセージを全世界へ発信した。ローリング・ストーンズのミック・ジャガーも参加。
8月、インドの宗教家、
マハリシ・マヘシ・ヨギを訪ね、修行を受ける。
8月27日、マネージャー、ブライアン・エプスタインの死。死因ははっきりしていない。突然の出来事に、インドにいたビートルズも急遽帰郷した。エプスタインの死に大きなショックを受けた。
9月、エプスタインの死後、映画 「Magical Mystery Tour」の製作に取りかかった。脚本・監督・主演・音楽と映画製作のすべてを自分たちの手で作り上げて行った。
10月、リンゴが単独で映画「キャンディ」に出演。
12月、BBCテレビで 「Magical Mystery Tour」が公開され、視聴率75%を記録。しかし、白黒で放送されて しまったため批評家からの評価は散々。ただ、ビートルズが与えた影響は大きく、
「サイケデリック」時代の幕開けでもあった。
1968年
2月、再び瞑想修業のためインドへ。しかしマハリシのやり方に疑問をいだきはじめ、わずか1ヶ月で帰国。マハリシとは決別した。その一方で、ジョージはインド音楽にますます興味を持ち始める。
この後ビートルズは自分たちの会社
「アップル」を設立。
3月、アルバム「Sgt Pepper's Lonely Hearts Club Band」が67年度のグラミー賞を4部門で獲得。
7月17日、アニメ映画「イエロー・サブマリン」公開。
8月、ポールはこの頃から写真家リンダ・イーストマンと付き合うようになる。
10月、ジョンはもうすでにオノ・ヨーコに夢中。シンシアとジュリアンはジョンから見放されてしまった。
11月、ジョンとシンシア離婚。
1969年
1月 映画「Let It Be」撮影のためアップル本社の屋上でライブセッションが行われる。
2月 新しいマネージャーとしてアラン・クレインが迎えられる。しかしすでにビートルズの4人はバラバラ状態で、修復不可能とまで言われる。
3月 ポールはリンダと結婚。ジョージはパティと共に麻薬不法所持で逮捕。そしてジョンはついにヨーコと結婚した。 さらに25日〜31日にかけてアムステルダムのヒルトンホテルで
ベッド・インを行った。
4月 ジョンは名前を「ジョン・オノ・レノン」に改名する。
7月1日〜3日 ビートルズ最後のセッションが行われる。
9月 「ポール死亡説」が全世界的に広まる。
11月 15日に最後のフォト・セッションが行われる。またジョンはその年勃発していた「ベトナム戦争」などに抗議しMBE勲章を返還する。
12月 ジョンとヨーコは世界の主要都市で「War is Over」のキャンペーンを実施。もうジョンは完全にビートルズとしての活動をやっていなかった。
1970年
4月10日 既にビートルズは崩壊していた。ポールは必死に元に戻ろうと3人を説得していたが願いも叶わず、ポールは
自ら脱退を発表した。
5月 映画「レット・イット・ビー」が公開される。
12月 ポールはビートルズとアップルの解散を求め、ジョン、ジョージ、リンゴをロンドン高等裁判所に告訴した。